2016.05.31の魔法的

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ずっと、過去と逆方向に舵をとるように、あたらしい方向へ進んでいた点と線の群が、ひとつの丸になった。
「犬」で朝を待ち望んだ冷静な必死さ、「LIFE」の超越的な悟りと消費性をも包みこんだ刹那、「球体」の身軽なあたたかい夕方、「eclectic」の深夜に溶けこむ濃厚な愛、「環境学」の利口さと神秘性。
 すべてを取りこんだ小沢健二だった。
 
「ひふみよ」の緊張と決意も、「東京の街が奏でる」の甘美さと親密感も、あるいは「うさぎ!」の希望も、「モノローグ」の隙間をうめるリズムも。東京も、ニューヨークも。すべてがつながったのではなく、すべてがひとつになっていた。
 

 
 
2016年、7つの、新しい曲たち。
彼は「ツアーのためにつくった」と言ったけど、わたしは、あの曲たちのためのツアーではないかと思う。アメリカで書かれたであろうあの曲たちが、日本の小さな箱を飛び交うツアー。
 
「さよならなんて云えないよ」が、あんなにも懐かしいものに感じられたのは、はじめてだった。色あせたのでも力を失ったのでもなく、彼はいまあの新しい7曲たちの地点にいる。
そして、「ひふみよ」や「東京の街が奏でる」のときのように、「さよならなんて云えないよ」といった「おなじみの名曲群」をたよりにしなくてはフロアと繋がれない、そんなことはもう、ないのだ。
 
 
2010年、13年ぶりのツアーを発表し、焦がれ待ち望んだ観客たちの前に姿をあらわして、歌をうたった小沢健二
歌。LIFE期、あるいは95年前後の楽曲たち。あのころ若者だった大人たち、彼らの歌。「ひふみよ」で演奏されたそれらの曲は、あらたな温度と郷愁感とがこめられていた。若者といわれた時代を愛してやまず、いつでもタイムリープをしたがる、彼や彼女たちのために。
 
それが手がかりだったからだ。
 90年代ではなく、2010年の小沢健二がこの国で、街で、ふたたび大衆音楽を歌うための、かつてのファンたちが2010年の小沢健二とつながりを感じるための、手がかり。

 
 
「ひふみよ」ツアーの彼の歌声は、モノローグの声は、かたくて重い。当時は、13年間のあいだにそのような声質へと変化したのだと思った。しかし実際にはそうではなく、彼自身というよりも「ひふみよ」のあの場所そのものに、一片も弛みがなかったのだ。
 誰もが気を抜けない、探り探りの、微妙すぎる緊張感があった。なにも考えずに手放しで大喜びした観客は、ほとんどいなかったように記憶している。
「犬」にも少し似た、まだこれからのことはなにもわからない漠然とした不安がまといつつも、やっとおとずれた朝の光をひとまず全身で浴びてみる、そういう空気だった。かつてのような、肩を上下左右に乱しながら熱気に取り憑かれたようにギターをかき鳴らし、なにひとつ隠さない笑顔で、ときどきキーを外すほどに歌い溢れ、両手をぶんぶん使ってぴょんぴょん跳ねる、躁状態みたいな小沢健二。そういう姿は、あるいはその名残さえ、少しもなかった。
 
 
続く2年後の「東京の街が奏でる」で最も変化を感じたのは、モノローグだった。とにかく軽い。内容そのものの素晴らしさはまったく劣らないし、むしろよりひとつの作品としての完成度は高まっていたが、なによりそれを表現する小沢健二の軽やかな、楽しげなこと。
美しくメロウな天然木のオペラシティ、「奏でる」楽器群、オルゴール、それらとともにする12夜、その後のozkn.net、等々。小沢健二と観客たちのあいだに、間違いなく親密さが生まれていた。客席や公演前後を見渡すと、リラックスして一夜を楽しむことができる観客も、いくらか増えていたように思う(わたしはまだまだ全然、余裕がなかったけど)。
 
 
それから4年が経った。お得意の、4年。
その間、ときおりどこかにふらっと姿をあらわしては覗かせた彼の表現は、ぐっと甘美で、優しいものになっていった。深く深く、海ができあがっていくみたいに広がっていった。子どもという存在がそうさせたのだと、わたしは思っている。奇跡的な、今までは不思議と見えていなかった世界を発見し、それが、彼自身の元来の気質と、見事なまでに調和した。
 
2016年になって、「子ども」を原動力に音楽を生み出す小沢健二なんて、想像できなかった。彼と「子ども」というキーワードがこんなにも強く優しく豪快に結びつくなんて、まるで思っていなかった。なんて真摯で、わがままで、素敵なことなのかと思う。
 
かつての小沢健二には東京や、あるいは友人や恋人としての「君」がいたように、いまの、少なくともしばらくは、「子ども」が彼のそばで、いや彼の視点になって、「子ども」という存在を出発点に、あの聡明な頭と身体が世界をとらえ、言葉をつくり、音楽をつくる。わたしにとって、こんなに幸福なことはない。しかもわたしたちはその断片を、ときどき、たぶん、覗くことができるのだ。彼にその気があれば。
 
そうやって生まれた新曲たちは、いま、小沢健二と観客をつなげることができる。
はじめて聴くあたらしい歌に、フロアは狂おしく熱を上げることができる。腕を突きあげたり、腰を振ったり、涙をこらえたり、くやしいほどのグルーヴににやついたり、いっしょになって歌うことができる。

 

一曲目、「フクロウの声が聞こえる」の歌詞が映し出された瞬間に、たまらなくなって泣いた。歌詞の大部分を知らないまま、いまの小沢健二がいちばん好きだ、と、思った。濃い光に満ちあふれ、パワフルで、いつも共にあったはずの「おなじみの曲」たちは、今回ばかり、はじめてあんなに遠いところにあった。古くなったわけじゃないが、ただただ懐かしかった。あれは本当の意味での、「おなじみ」だったのかもしれない。
 
フロアはめちゃくちゃに盛り上がる。体を振る、合唱する。超絶に、ハンパなく、バカみたいに格好いい最高の最高のアレンジに、体じゅうのエネルギーをぜんぶ使いきるんじゃないかと思うくらいの小沢健二の歌唱に、歓声をあげる。でも、心はすっかりあの7曲たちに棲んでいた。
 
「ラブリー」とか、「さよならなんて云えないよ」に、居合わせた人たちみんなが肯定され、肯定する、刹那というものを知る、何度も繰り返されてきたあの究極の高まりが、今回、わたしには感じられなかった。
もちろん、ほんとに、メチャクチャに素晴らしかったし、あの一体感、ぐんぐんと高まっていくフロアとステージの楽しさったらなかった。楽しかった。涙している暇もなく、ただ、楽しかった。この6年間の小沢健二に触れてきて、はじめて本当に、手放しで楽しんだ時間だった。
 
フロアとステージの「つながり」を生むものとしての「おなじみの曲」たちは、もう必要なかった。開演前から、緊張感なんてどこにもなかった。彼が6年ものあいだ失踪することなく活動してくれているとなれば(!)、さすがに多少の慣れというものもあったけど。
 
でも、確信めいたものが、あったと思う。
開演を待つあいだ、はらはらした気持ちは微塵もなく、ただどきどきしていた。小沢健二はこれまでのすべての小沢健二として、ただの小沢健二という存在で、最高の歌たちを、自然体なままに、オープンに、なにも臆さず悪びれず、格好よさも可愛さも幼稚さも聡明さもたずさえて、ここにあらわれるんだろう、と思っていた。

 

それは本当だった。
肩を上下左右に乱しながら熱気に取り憑かれたようにギターをかき鳴らし、なにひとつ隠さない笑顔で、ときどきキーを外すくらい歌い溢れ、両手をぶんぶん使ってぴょんぴょん跳ねる。
「もっと聞かせてくれ!」と何度も何度も何度も、しつこくねだる(「戦場のボーイズ・ライフ」をはじめて聴いたときからずっと、彼がポーズする「もっと聞かして!」の素直すぎる力強さにわたしは完全に降参している)。踊れ!と誘い、扇動しまくる。汗をかき、あの前髪を振り乱して。
 
 
1月の渋谷クアトロ。あのとき、「ファンにだけは真摯だと思っていたのに」というような感想を、いくつか見かけた。すなわち、魔法がとけてしまった、と。
小沢健二は、自分自身に対してはじめから、今もずっと、過剰なほど真摯だと、わたしは思っている。決して、ファンに対してではなく(真摯でないというのでもないけど)。
それで、そういう彼を愛している。だから、彼がなにをしたって裏切りとは思えないし、なにをしたってわたしたちのためだとも思えない。だから、好きだ。彼はこちら側に魔法をかけたことなんかない。この世に、ほんとうに魔法があることを教える。気持ちひとつで、誰でもその魔法にかかることができるということも。
小沢健二が、小沢健二というひとに対してつねに真摯であるかぎり、わがままであるかぎり、わたしは彼のことが好きだ。
 
魔法的、ほんとうに、よかった。最高だった。
小沢健二のなにもかもが、あの小沢健二のなかに、一緒にある。
ほんとうに、ほんとうに、よかった。